bookmark_borderじぶんと世の中を考えてみる。

へちまを育てながら、お金のことを考えていました。ぼくはこういうことをやっていこうと思います。というか、お金に関していまやっていることの全体像はこういうことだと思います。

お金を稼ぐ。貯める。そしたら株を買い、お金を増やす。それを繰り返し、少しずつ増やしながら、こんどはそのお金のうちの一部を、じぶんがいいと思う領域に投下していく。社会をよくするサービスを提供する企業の株を買う。畑を借りてへちまのたねや苗や肥料を買って、育て、たわしをつくって世に広げる。まちでいちばん好きな飲食店で晩ごはんを食べる。クラウドファンディングで気に入ったプロジェクトを応援する。がんばってほしい自治体にふるさと納税する。社会のために必要な活動をしているNPOや団体に寄付する。より良い方向に進もうとしている起業家や将来有望な若者を支援する。そういうサイクルを回していく。それによって、自分がそうあってほしいと願う方向に社会を進めてくれそうな企業や団体や若者やプロジェクトには元気に活動してもらう。そんなお金の流れ方にしたい、と。

もちろん、いまはまだその流れがようやくできつつあるところで、ちょろちょろしたか細いラインにすぎないけれど、とはいえとにかくラインはできたのだから、あとは太くしていけばいい。ぼくのこれからの目標は、お金を回して、そのお金の回し方を大きなものにしていって、良い社会をつくるサイクルを生み出すこと。

お金を稼ぐ、増やす、投下する。この繰り返し。その原点にあるのはまず「稼ぐ」こと。だからなるべく長く、なるべく多く、稼ぎ続けることは、このサイクルの土台となる部分になるはず。お金を稼ぐことはつまり、じぶんの暮らしのためだけでなく、社会をより良いものにするために必須なこと。

へちまの苗に水を与えながら、真剣にそんなことを考えています。

bookmark_border畑の採れたてトマトで生きていく

畑を借りて作物を育てるチャレンジを始めて早くも3年(もしかしたら4年になるのかもしれない)になりますけど、これまでのところとにかく農作物づくりが下手くそです。ニンニクも、玉ねぎも、ジャガイモも、里芋も、たいていちっちゃいし、生育の勢いも弱い感じで、結果としての収穫量も少ないのです。それに比べて隣の畑の人たちの育てたものはたいてい大きくて豊かで立派です。だからなんだかちょっと情けないような気持ちも多少は感じなくもないのですが、でも、本人は、それほど悲しんでいるというわけでもなく、やはり、「土や栄養によるものが大きいのだろうな」と冷静に思っています。土壌の力を、どうやって豊かなものにできるだろうか、とぼんやりと思い、ゆっくりといい方向に向かっていけたらと思います。

そんななかで、安定した収量をもたらしてくれるのが唯一、トマトです。わたしが育てるのは主にミニトマトや中玉トマトで、苗を買ってくるものもあれば、種から育てるものもあります。摘みとった脇芽から苗を育てることもよくやるので、小さな投資からたくさんの苗を揃えられるのもトマトの魅力です。

トマトは、とても強い作物、という気がします。苗を植えたら、たまに脇芽を摘み取ったり、支柱に紐付けしたりという作業をする程度で、あとは勝手に育って、勝手に実をつけてくれます。炎天下の畑で草刈りをしたり汗を流したりしているときに、トマトの実をひとつプチっと採ってパクッと口に入れるとみずみずしさと甘さがブワッと口に広がります。大地と太陽の恵みそのまま、という気がします。

この日も、赤くなった実を一つ一つ採って行ったら、カゴいっぱいになりました。これは、そのままでも美味しいのですが、わたしは家に持ち帰って、洗って、冷凍します。後日それを解凍して皮をむいて、それを煮込んでトマトソースにします。そのトマトソースを小分けしてまた冷凍します。1年分のトマトソースを作りたいと思っています。

bookmark_border北村くらた農園、2019.8.2 その2

今回、北村くらた農園を見て、いろいろ思うところがありました。

ひとつは「生産性向上の重要性」。私が知っている昨年までの状況と違い、今年は新しい機械が投入されたことによって、枝豆の収穫から脱莢までのプロセスが劇的に進化しており、枝豆が商品化され店頭に並べられるまでのスピードが圧倒的に増していました。これによって、お店でお客さんが待っているのに商品がない、という状況がなくなったのです。買い手であるお客さんの不満も減り、お客さんを待たせているという作り手側のプレッシャーも減り、売上げのスピードは上がる。その日に採れた枝豆だけをその日のうちに売り切る商売を続けている北村農園にとっては、この生産性向上はそのまま収益性改善であり、職場環境改善であり、経営改善です。すごい、と思いました。

へちまプラネット計画

もうひとつは「規模の重要性」。
農業経営、というものを考えるとき、規模感はとても重要だと思います。畑や田んぼの大きさによってどんな機械を選ぶべきかが変わってくるし、どんな機械を選ぶかによって農業経営は大きく変わってきます。農業の投資金額というのは、もちろん土地もあるでしょうがやはり機械設備によるところがかなり大きいのではないでしょうか。枝豆を10年以上やってきた北村くんがここにきて機械に大きな投資をすることになったのも、枝豆の需要を創出し、多くの顧客を作ったことで、枝豆を栽培する畑を大きくすることになったからに他ならないと思います。畑の大きさが、必要な機械設備を規定するわけです。

特に北村くんの仕事を横目で見ながら、あるいは自分で畑を借りてみたりしながら、農業というものをここ数年ぼんやりと考えていました。で、もしも(自分が)農業経営をするのならば、ということを考えた時、まず理想的なのは、ひとつところに(つまり分散された農地ではなく)、できるだけ大きな農地を持つことだろうと思いました。当たり前ですが、小さく分散された畑を複数持つより効率的だからです。それが自分の家の前にあるならなおいい。そういう土地に出会えるかどうかが、(いつか自分が)農業経営に踏み切るための第一歩になるような気がします。果たしてそんな時が来るのか?そんな出会いなどありうるのか? とも思いますが。

農業について考えるとき、「21世紀は大量生産・大量消費の時代ではない」という自分の勝手な思い込みに対し、そうでもないぞ、と思います。どんな時代になろうとも、生産現場は工場であり、そこが工場である限りは、そしてそこで生産されるモノが唯一無二のモノでもない限りは、やはり生産量の追求が行われるはずです。そうでなければたくさんの利潤を生み出すことができません。そしてそうなればやはり「効率」も追わなければならない。それは不変なことのように思われます(ただ「利潤はたくさんでなくともいい」という解答もあるでしょうが)。

大切なのは、そういう工場で働くときに、私たちは「人間性」を失わずに仕事することができるのだろうか、というところです。「身を粉にして働く」「心身がボロボロになるまで働く」というのは決して美徳ではありません。ベルトコンベアの前で人間性を押し殺し、機械のように働くような働き方は、人間の本当の働き方とは程遠いのです。私たちは、畑というのが「生産現場=工場」であったとしても、笑顔で生き生きと働くべきだと思います。ときどきお邪魔する北村農園は私にとってはそういう職場なのです。

bookmark_border北村くらた農園、2019.8.2

朝の4時に目覚めて枝豆畑へ行くと、北村くんはすでに収穫作業中であった。その日は、酒田市の花火大会の前日ということで、直売所が忙しくなることが予想されていたから、できるだけ多くの収穫をして商品を作りお客さんを待ちたい、ということらしかった。北村くんは、朝の3時から作業をしていた。まだ真っ暗の夜中の、星空が美しいような時間から、である。残念ながら私は、星を見ることはできなかった。そのかわり、ほんのりと朝焼けに染まる鳥海山の姿を眺めることができた。

北村くらた農園

bookmark_border畑の多様性と、隣との関係性。

山形市内のとある果樹農家さんを訪ねた。シャインマイスカットを育てていた。地上2メール弱の高さに広がる棚から、どわーっと美しく、明るい緑色したぶどうが垂れ下がっているのは圧巻の光景だった。もうずいぶんそれらしい外見をしているのに、収穫まではまだ2ヶ月もあるという。最終的には、一粒ひとつぶが15g以上にまで大きくなり、房としての形が美しい紡錘形を描くと、ようやく良いお値段がつくのだという。そこに至るまでの、ひと房から一粒のぶどうを摘果する作業などを拝見し、ぶどう農家さんの仕事が大変なものであることを、ほんのわずかの時間ではあるが教えていただいた。すごいものである。

その農家さんとのおしゃべりのなかに、「ずいぶん昔に有機農業をめざしていた」という話があった。農薬を使わず、雑草も取らず、畑をできるかぎり自然にまかせるような環境にしてみたのだという。そしたら、隣近所の農家から文句を言われるようになった。周りの農家さんたちは当たり前のように除草剤を使ったり、無駄な雑草を生やさないように生やさないようにしているから、「お前の畑から雑草の種が飛んでくるじゃないか、迷惑だからやめろ」と苦情が殺到したらしい。そうした批判が日に日に強くなり、根負けして、有機農業をめざすことを諦めたことがあったのだ、という話であった。

私も山形市内に2箇所ほど畑を借りているが、そのうちのひとつは、やはり隣の人が全く雑草を生やさない人で、いつも文句ありげな顔でこっちを見てくるからよくわかる。雑草が許せないし、隣から雑草の気配が漂うことが許せないのである。根本的に求めている世界が違うということは、やはり喧嘩の種になってしまうのである。

ちなみに私は雑草容認派である。除草剤や防虫剤の薬品も(今のところ)使わない。肥料は適当に使う。化成肥料を買うことも、市販の油かすを買ってくることもある。あとは、珈琲店をやっている友人の珈琲かすを畑に撒いている。あまり厳密であろうとする気はない。畑は世の中である。ほどよく自由で、多様な生き物が生きられる環境のほうが、なんとなくいい気がする。街と同じである。でも、それも、直感的なものに過ぎない。ただし、できるだけプラスチックを使用しない農業をしたい。それだけがかろうじてのポリシーだと思っている。

 

bookmark_borderGreta Thunbergから学ぶこと。

COP24のGreta Thunbergのスピーチを見て最初に思ったのは、なんだか面白い態度だな、ということだった。世界の指導者みたいな人たちを前に、「あんたたちはどーせなんにもしないんでしょ」と、高校生になった娘がサエない父親に向かってボソッと吐くようなダメ出しする。これを、世界の舞台で繰り出す。すごいワザである。

子どもが大人に向かって、お願いをするでもなく、提案をするでもなく、ダメ出しをする。あるいは、あきれていることを伝える。かつて橋本治が『上司は思いつきでものを言う』のなかで、「思いつきでものを言う上司に対して「ええーっ!?」と語尾をすっとんきょうに上げてあきれなさい」と言っていたのとどこか似た作戦のような気がした。

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You say you love your children above all else, and yet you are stealing their future in front of their very eyes.

Until you start focusing on what needs to be done rather than what is politically possible, there is no hope. We cannot solve a crisis without treating it as a crisis.
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We have not come here to beg world leaders to care. You have ignored us in the past and you will ignore us again.

We have run out of excuses and we are running out of time.

We have come here to let you know that change is coming, whether you like it or not. The real power belongs to the people.
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理屈を語るでもなく、情熱を見せるでもなく、ただ堂々と上から目線でダメ出しをする。この表情、この口元。すごいものである。

bookmark_border麻の栽培ネットを探して。

できるだけ、プラスチック製品ではないものを使って農業したい、と考えている。そう考えて買い物に行くと、農業に必要な資材やさまざまなモノの多くがプラスチック製品であることに気づく。やっぱり、安くて、軽くて、便利なのだ。

栽培ネットもそのひとつ。先日たまたま100円ショップのDAISOで、麻紐の栽培ネットを見つけた。これはいいと感心した。なにより安い。店には2つだけ在庫があったので2つとも買った。んで、足りないと思って、後日また買いに行ったらもう並んでなかった。DAISOの別の店舗に行ってみたら、並んでいる気配すらなかった。他の100円ショップも、プラスチック製ならあるけど、麻紐のものは見つけられなかった。

ホームセンターで探せば、麻紐のネットを見つけることはできるみたいだ。だいたい500円以上するみたい。私が買ったのは650円くらいだった。

bookmark_border木製プランターを自作する。

脱プラスチック農業にトライアルしたい我らが「へちまプラネット計画」なので、プランターもやっぱりプラスチックではないものを選びたい。

が、これが意外と、選択肢が見つからない。ホームセンターに行ってもなかなか出会わない。だいたいがプラスチックである。そういうわけで、自作してみることにした。ホームセンターで幅15センチくらい長さ2メートルくらいの板が10枚束になったのが1000円ちょいで売っていたので、それを購入。合わせてのこぎりと釘を購入。んで、適当に作業をスタートさせた。

もともとこういうのが苦手な私には、予想をはるかに超えて大変な作業だった。箱になるような設計をするのも、正確に長さを測ることも、のこぎりで綺麗に切ることも、直角をうまく作るのも、板と板とを繋ぐのも、立体を作り出すのも、強度を出すのも、とにかく全てが雑で下手。

木製プランターを作るために要した時間は半日を超えた。材料費は1000円ちょっとで済んだとしても、ちょっと大変すぎる。2000円で既製品が買えるのなら私はそっちを選びたい。

完成したプランターは、写真で見るとそんなに悪くないが、細かく見るとひどいものである。脱プラスチック農業への道のりは遠いのだ(写真のプランターの周りにプラスチックがじつは色々あるし)。