実家にて、へちまのグリーンカーテンの裏側から。家の東側と西側にグリーンカーテンができるように、とふたつのプランターを設置したけれど、東はよく育ち、西はまるで育たなかったですね。土も、栄養も、ほぼ同じなので、違いはまさに方角の違いだけ。これはつまり、陽の当たる光の量の違いなのでしょう。
bookmark_borderへちまに光。

Let’s raise hechima gourds. Let’s paint this planet green. Let’s experience the beauty of each unique plant, and the joy of harvesting what we grow. Let’s find uses for the loofah sponge, the fruit of the hechima gourd, in our daily lives. These simple desires are what motivate us to continue the Hechima Planet Project, day after peaceful day.
実家にて、へちまのグリーンカーテンの裏側から。家の東側と西側にグリーンカーテンができるように、とふたつのプランターを設置したけれど、東はよく育ち、西はまるで育たなかったですね。土も、栄養も、ほぼ同じなので、違いはまさに方角の違いだけ。これはつまり、陽の当たる光の量の違いなのでしょう。
なんと、実が育っているではないですか!!
これは私の実家で育てているもの。家の東側の、日当たりのいいところで。このプランターに植えたのは、7月に入ってからのこと(だと思います)。「真ん中の畑」はもっと早くに植えたし、庭の別のプランターも6月のうちだったのですけど、それらは全然だめ。「真ん中の畑」はもっとグリーンカーテンも豊かでワシャワシャしているのに実は成っていません。そんなそれらを差し置いての素晴らしい成果です。やっぱり日当たりがいいという条件下で、梅雨明けの太陽の光と猛暑によって生育が進み、そしてかつなんらかの理由で受粉がうまくいったということなのかもしれません。
いずれにせよ、これが、現在確認できるたった1本のへちま! このまま順調に育てば、とりあえず、1本、自家製のへちまたわしが製造できるはず! トータル20本くらいの苗を植えたはずなのに、、、、なんという、気が遠くなるような効率の悪さなんでしょうか。
2019年8月15日。終戦記念日の朝、7時。
いちばんよく行く「真ん中の畑」のへちまは、だいぶわしゃわしゃとして、グリーンカーテンらしくなり、花もよく咲いていました。けれど、残念ながらへちまの実になりそうなものの姿が見つかりません。うまく交配が進んでいないということなのでしょうか。
へちまプラネット計画を進めていくにあたり、今後は私一人だけではなく、多くの人から賛同してもらい協力してもらって、庭や畑でそれぞれにへちまを育ててもらうというフェーズへと移行しなければならないと考えています。
今回初めてこうして自分の畑でへちまを育ててみて、その育ち方をだいぶ理解することができました。一つの発見は、サイズ感です。家庭の庭先で小さなプランターから育てることは可能ですが、栽培ネットやそれを支える支柱はなかなかに大きなものが必要なことは間違いありません。高さは2メートルくらいは欲しいし、幅もやっぱり2メートルくらいあったほうがいい。可能性として台風到来も考慮し、立てるのならできるだけしっかりとした支柱を立てたい。
ってことを列挙してみると、家庭で育てるといっても、意外と場所を選ぶし、手間も多少はかかります。それでも、へちまを育てる余地はまだまだこの街にはたくさんあるだろうと信じています。
へちまが大きく育つにしたがい、いろんな生物たちの存在に気がつくようになりました。根元にいるダンゴムシたちや、葉に休む小さな蝶(蛾なのかな?)たちや、茎を走り回るアリたち。
おそらく彼らはへちまから何か(栄養や恵みや憩いや)を受け取り、そしてへちまは彼らによって花粉を運んでもらったり、なにかの影響を受けたりするのでしょう。さまざまな多様な生き物との交わりが、予想されていたものや予想されていなかったものとのネットワークを構築し、互いに影響を及ぼしあっています。
このカエルは、このへちまの葉の下で、どんな関係性を生み出しているのでしょうか。
こちら、わたしの実家の東側に植えたへちまプランターの様子です。植えた時期が遅かったので、育つのはもうムリかなーと思っておりましたが、7月下旬からの猛暑のおかげなのか、すくすくと育ち、蔓を伸ばして、今日、ようやく、へちまの実らしきものを確認しました。たぶんこのしぼみかけているのが雌花なんでしょうね。すでに雄花との受粉が済んで、ふっくらとしてきたこれがこれから実となってまたどんどんと育っていく、、、ということなのだろうと、ようやっと理解しました。
順調に大きく大きく育ってほしい、と願うばかりです。楽しみ。
畑を借りて作物を育てるチャレンジを始めて早くも3年(もしかしたら4年になるのかもしれない)になりますけど、これまでのところとにかく農作物づくりが下手くそです。ニンニクも、玉ねぎも、ジャガイモも、里芋も、たいていちっちゃいし、生育の勢いも弱い感じで、結果としての収穫量も少ないのです。それに比べて隣の畑の人たちの育てたものはたいてい大きくて豊かで立派です。だからなんだかちょっと情けないような気持ちも多少は感じなくもないのですが、でも、本人は、それほど悲しんでいるというわけでもなく、やはり、「土や栄養によるものが大きいのだろうな」と冷静に思っています。土壌の力を、どうやって豊かなものにできるだろうか、とぼんやりと思い、ゆっくりといい方向に向かっていけたらと思います。
そんななかで、安定した収量をもたらしてくれるのが唯一、トマトです。わたしが育てるのは主にミニトマトや中玉トマトで、苗を買ってくるものもあれば、種から育てるものもあります。摘みとった脇芽から苗を育てることもよくやるので、小さな投資からたくさんの苗を揃えられるのもトマトの魅力です。
トマトは、とても強い作物、という気がします。苗を植えたら、たまに脇芽を摘み取ったり、支柱に紐付けしたりという作業をする程度で、あとは勝手に育って、勝手に実をつけてくれます。炎天下の畑で草刈りをしたり汗を流したりしているときに、トマトの実をひとつプチっと採ってパクッと口に入れるとみずみずしさと甘さがブワッと口に広がります。大地と太陽の恵みそのまま、という気がします。
この日も、赤くなった実を一つ一つ採って行ったら、カゴいっぱいになりました。これは、そのままでも美味しいのですが、わたしは家に持ち帰って、洗って、冷凍します。後日それを解凍して皮をむいて、それを煮込んでトマトソースにします。そのトマトソースを小分けしてまた冷凍します。1年分のトマトソースを作りたいと思っています。
以前「たわしにするには未熟」というタイトルの記事で、沖縄産の食用へちまでのたわし作りチャレンジのことを報告しました。まさにそのタイトルが指し示す通り、食用のへちまはまだまだ未熟で繊維質が発達していないため、たわしには不向きであることが発覚したのでした。あの記事では、へちまを茹でて皮をむいたところまでをレポートしましたが、当然ながら「その続きの物語」が存在します。
繊維が未発達すぎることを自分の手と目で否応なく理解し、こりゃ全然ダメだなーってがっかりしながらも、「もしかしたらこれを乾燥させればふっくらと立体化して見事なたわしにトランスフォームしてくれるのかもしれない」という淡い期待を抱いて、私はその、茹で上げた後に水洗いしてびちょびちょになった、まるでたわしらしくないへちまたわしを、玄関前に広げた新聞紙の上にそっと置いて、日陰で自然乾燥させることにしたのでした。もちろん妻からは「ちょっと!! ヘンな気持ちの悪いものを玄関前に置かないでよ!」という有難いコメント(罵声?)も頂戴し、無言の背中でしっかりと受け止めました。
そして後日、出来上がったのが、上の写真です。
なんというか、、、かんぴょうのような、かんぴょうにも程遠いような、とにかく素晴らしくみすぼらしく、なににもなることができなかったなにか、が完成したのです。ちなみにこの「へちまたわし崩れ」は2本あったのですが、そのうちの1本は我が家で飼っている犬に食べられたそうです。もちろんその時、妻は「ちょっと!! ギン(犬の名前)! そんなヘンな気持ちの悪いもの食べちゃ絶対ダメ!! お腹壊すよ!」と叫んだのだそうです。
へちまたわしへの道のりは、はるか遠く、まだまだ続きます。
今回、北村くらた農園を見て、いろいろ思うところがありました。
ひとつは「生産性向上の重要性」。私が知っている昨年までの状況と違い、今年は新しい機械が投入されたことによって、枝豆の収穫から脱莢までのプロセスが劇的に進化しており、枝豆が商品化され店頭に並べられるまでのスピードが圧倒的に増していました。これによって、お店でお客さんが待っているのに商品がない、という状況がなくなったのです。買い手であるお客さんの不満も減り、お客さんを待たせているという作り手側のプレッシャーも減り、売上げのスピードは上がる。その日に採れた枝豆だけをその日のうちに売り切る商売を続けている北村農園にとっては、この生産性向上はそのまま収益性改善であり、職場環境改善であり、経営改善です。すごい、と思いました。
もうひとつは「規模の重要性」。
農業経営、というものを考えるとき、規模感はとても重要だと思います。畑や田んぼの大きさによってどんな機械を選ぶべきかが変わってくるし、どんな機械を選ぶかによって農業経営は大きく変わってきます。農業の投資金額というのは、もちろん土地もあるでしょうがやはり機械設備によるところがかなり大きいのではないでしょうか。枝豆を10年以上やってきた北村くんがここにきて機械に大きな投資をすることになったのも、枝豆の需要を創出し、多くの顧客を作ったことで、枝豆を栽培する畑を大きくすることになったからに他ならないと思います。畑の大きさが、必要な機械設備を規定するわけです。
特に北村くんの仕事を横目で見ながら、あるいは自分で畑を借りてみたりしながら、農業というものをここ数年ぼんやりと考えていました。で、もしも(自分が)農業経営をするのならば、ということを考えた時、まず理想的なのは、ひとつところに(つまり分散された農地ではなく)、できるだけ大きな農地を持つことだろうと思いました。当たり前ですが、小さく分散された畑を複数持つより効率的だからです。それが自分の家の前にあるならなおいい。そういう土地に出会えるかどうかが、(いつか自分が)農業経営に踏み切るための第一歩になるような気がします。果たしてそんな時が来るのか?そんな出会いなどありうるのか? とも思いますが。
農業について考えるとき、「21世紀は大量生産・大量消費の時代ではない」という自分の勝手な思い込みに対し、そうでもないぞ、と思います。どんな時代になろうとも、生産現場は工場であり、そこが工場である限りは、そしてそこで生産されるモノが唯一無二のモノでもない限りは、やはり生産量の追求が行われるはずです。そうでなければたくさんの利潤を生み出すことができません。そしてそうなればやはり「効率」も追わなければならない。それは不変なことのように思われます(ただ「利潤はたくさんでなくともいい」という解答もあるでしょうが)。
大切なのは、そういう工場で働くときに、私たちは「人間性」を失わずに仕事することができるのだろうか、というところです。「身を粉にして働く」「心身がボロボロになるまで働く」というのは決して美徳ではありません。ベルトコンベアの前で人間性を押し殺し、機械のように働くような働き方は、人間の本当の働き方とは程遠いのです。私たちは、畑というのが「生産現場=工場」であったとしても、笑顔で生き生きと働くべきだと思います。ときどきお邪魔する北村農園は私にとってはそういう職場なのです。
4日ほど酒田に行っていました。帰ってきて久々に「真ん中の畑」へ向かうと、へちまの花がいくつも咲いていました。ぽとりと地面に落ちてしまっていたものもいくつかありました。この前読んだ本には、雄花と雌花があって、それを受粉させてやることで実が成るというようなことが書いてあったので、どれどれと思って見てみましたが、どれも雄花に見えて、雌花がどれなのかわかりませんでした。なので今日はとりあえず、花には手を触れず、根元にちょっと肥料を足して、あとはちょっとだけ土寄せして、連日30度を超えてカラカラになった土に水やりをして終了しました。
へちまは、ちゃんと実を成してくれるのだろうか?
私は心配事は、とりあえずそれだけです。
朝の4時に目覚めて枝豆畑へ行くと、北村くんはすでに収穫作業中であった。その日は、酒田市の花火大会の前日ということで、直売所が忙しくなることが予想されていたから、できるだけ多くの収穫をして商品を作りお客さんを待ちたい、ということらしかった。北村くんは、朝の3時から作業をしていた。まだ真っ暗の夜中の、星空が美しいような時間から、である。残念ながら私は、星を見ることはできなかった。そのかわり、ほんのりと朝焼けに染まる鳥海山の姿を眺めることができた。