bookmark_borderへちまに光。

実家にて、へちまのグリーンカーテンの裏側から。家の東側と西側にグリーンカーテンができるように、とふたつのプランターを設置したけれど、東はよく育ち、西はまるで育たなかったですね。土も、栄養も、ほぼ同じなので、違いはまさに方角の違いだけ。これはつまり、陽の当たる光の量の違いなのでしょう。

bookmark_borderへちまになれ!

こちら、わたしの実家の東側に植えたへちまプランターの様子です。植えた時期が遅かったので、育つのはもうムリかなーと思っておりましたが、7月下旬からの猛暑のおかげなのか、すくすくと育ち、蔓を伸ばして、今日、ようやく、へちまの実らしきものを確認しました。たぶんこのしぼみかけているのが雌花なんでしょうね。すでに雄花との受粉が済んで、ふっくらとしてきたこれがこれから実となってまたどんどんと育っていく、、、ということなのだろうと、ようやっと理解しました。

順調に大きく大きく育ってほしい、と願うばかりです。楽しみ。

bookmark_border畑の採れたてトマトで生きていく

畑を借りて作物を育てるチャレンジを始めて早くも3年(もしかしたら4年になるのかもしれない)になりますけど、これまでのところとにかく農作物づくりが下手くそです。ニンニクも、玉ねぎも、ジャガイモも、里芋も、たいていちっちゃいし、生育の勢いも弱い感じで、結果としての収穫量も少ないのです。それに比べて隣の畑の人たちの育てたものはたいてい大きくて豊かで立派です。だからなんだかちょっと情けないような気持ちも多少は感じなくもないのですが、でも、本人は、それほど悲しんでいるというわけでもなく、やはり、「土や栄養によるものが大きいのだろうな」と冷静に思っています。土壌の力を、どうやって豊かなものにできるだろうか、とぼんやりと思い、ゆっくりといい方向に向かっていけたらと思います。

そんななかで、安定した収量をもたらしてくれるのが唯一、トマトです。わたしが育てるのは主にミニトマトや中玉トマトで、苗を買ってくるものもあれば、種から育てるものもあります。摘みとった脇芽から苗を育てることもよくやるので、小さな投資からたくさんの苗を揃えられるのもトマトの魅力です。

トマトは、とても強い作物、という気がします。苗を植えたら、たまに脇芽を摘み取ったり、支柱に紐付けしたりという作業をする程度で、あとは勝手に育って、勝手に実をつけてくれます。炎天下の畑で草刈りをしたり汗を流したりしているときに、トマトの実をひとつプチっと採ってパクッと口に入れるとみずみずしさと甘さがブワッと口に広がります。大地と太陽の恵みそのまま、という気がします。

この日も、赤くなった実を一つ一つ採って行ったら、カゴいっぱいになりました。これは、そのままでも美味しいのですが、わたしは家に持ち帰って、洗って、冷凍します。後日それを解凍して皮をむいて、それを煮込んでトマトソースにします。そのトマトソースを小分けしてまた冷凍します。1年分のトマトソースを作りたいと思っています。

bookmark_borderへちまたわし失敗作。

以前「たわしにするには未熟」というタイトルの記事で、沖縄産の食用へちまでのたわし作りチャレンジのことを報告しました。まさにそのタイトルが指し示す通り、食用のへちまはまだまだ未熟で繊維質が発達していないため、たわしには不向きであることが発覚したのでした。あの記事では、へちまを茹でて皮をむいたところまでをレポートしましたが、当然ながら「その続きの物語」が存在します。

繊維が未発達すぎることを自分の手と目で否応なく理解し、こりゃ全然ダメだなーってがっかりしながらも、「もしかしたらこれを乾燥させればふっくらと立体化して見事なたわしにトランスフォームしてくれるのかもしれない」という淡い期待を抱いて、私はその、茹で上げた後に水洗いしてびちょびちょになった、まるでたわしらしくないへちまたわしを、玄関前に広げた新聞紙の上にそっと置いて、日陰で自然乾燥させることにしたのでした。もちろん妻からは「ちょっと!! ヘンな気持ちの悪いものを玄関前に置かないでよ!」という有難いコメント(罵声?)も頂戴し、無言の背中でしっかりと受け止めました。

そして後日、出来上がったのが、上の写真です。

なんというか、、、かんぴょうのような、かんぴょうにも程遠いような、とにかく素晴らしくみすぼらしく、なににもなることができなかったなにか、が完成したのです。ちなみにこの「へちまたわし崩れ」は2本あったのですが、そのうちの1本は我が家で飼っている犬に食べられたそうです。もちろんその時、妻は「ちょっと!! ギン(犬の名前)! そんなヘンな気持ちの悪いもの食べちゃ絶対ダメ!! お腹壊すよ!」と叫んだのだそうです。

へちまたわしへの道のりは、はるか遠く、まだまだ続きます。

bookmark_border北村くらた農園、2019.8.2 その2

今回、北村くらた農園を見て、いろいろ思うところがありました。

ひとつは「生産性向上の重要性」。私が知っている昨年までの状況と違い、今年は新しい機械が投入されたことによって、枝豆の収穫から脱莢までのプロセスが劇的に進化しており、枝豆が商品化され店頭に並べられるまでのスピードが圧倒的に増していました。これによって、お店でお客さんが待っているのに商品がない、という状況がなくなったのです。買い手であるお客さんの不満も減り、お客さんを待たせているという作り手側のプレッシャーも減り、売上げのスピードは上がる。その日に採れた枝豆だけをその日のうちに売り切る商売を続けている北村農園にとっては、この生産性向上はそのまま収益性改善であり、職場環境改善であり、経営改善です。すごい、と思いました。

へちまプラネット計画

もうひとつは「規模の重要性」。
農業経営、というものを考えるとき、規模感はとても重要だと思います。畑や田んぼの大きさによってどんな機械を選ぶべきかが変わってくるし、どんな機械を選ぶかによって農業経営は大きく変わってきます。農業の投資金額というのは、もちろん土地もあるでしょうがやはり機械設備によるところがかなり大きいのではないでしょうか。枝豆を10年以上やってきた北村くんがここにきて機械に大きな投資をすることになったのも、枝豆の需要を創出し、多くの顧客を作ったことで、枝豆を栽培する畑を大きくすることになったからに他ならないと思います。畑の大きさが、必要な機械設備を規定するわけです。

特に北村くんの仕事を横目で見ながら、あるいは自分で畑を借りてみたりしながら、農業というものをここ数年ぼんやりと考えていました。で、もしも(自分が)農業経営をするのならば、ということを考えた時、まず理想的なのは、ひとつところに(つまり分散された農地ではなく)、できるだけ大きな農地を持つことだろうと思いました。当たり前ですが、小さく分散された畑を複数持つより効率的だからです。それが自分の家の前にあるならなおいい。そういう土地に出会えるかどうかが、(いつか自分が)農業経営に踏み切るための第一歩になるような気がします。果たしてそんな時が来るのか?そんな出会いなどありうるのか? とも思いますが。

農業について考えるとき、「21世紀は大量生産・大量消費の時代ではない」という自分の勝手な思い込みに対し、そうでもないぞ、と思います。どんな時代になろうとも、生産現場は工場であり、そこが工場である限りは、そしてそこで生産されるモノが唯一無二のモノでもない限りは、やはり生産量の追求が行われるはずです。そうでなければたくさんの利潤を生み出すことができません。そしてそうなればやはり「効率」も追わなければならない。それは不変なことのように思われます(ただ「利潤はたくさんでなくともいい」という解答もあるでしょうが)。

大切なのは、そういう工場で働くときに、私たちは「人間性」を失わずに仕事することができるのだろうか、というところです。「身を粉にして働く」「心身がボロボロになるまで働く」というのは決して美徳ではありません。ベルトコンベアの前で人間性を押し殺し、機械のように働くような働き方は、人間の本当の働き方とは程遠いのです。私たちは、畑というのが「生産現場=工場」であったとしても、笑顔で生き生きと働くべきだと思います。ときどきお邪魔する北村農園は私にとってはそういう職場なのです。

bookmark_border雄花と雌花がまだわからない。

4日ほど酒田に行っていました。帰ってきて久々に「真ん中の畑」へ向かうと、へちまの花がいくつも咲いていました。ぽとりと地面に落ちてしまっていたものもいくつかありました。この前読んだ本には、雄花と雌花があって、それを受粉させてやることで実が成るというようなことが書いてあったので、どれどれと思って見てみましたが、どれも雄花に見えて、雌花がどれなのかわかりませんでした。なので今日はとりあえず、花には手を触れず、根元にちょっと肥料を足して、あとはちょっとだけ土寄せして、連日30度を超えてカラカラになった土に水やりをして終了しました。

へちまは、ちゃんと実を成してくれるのだろうか?

私は心配事は、とりあえずそれだけです。

bookmark_borderへちまの花、咲く。

「咲くか?」と思ったのが昨日。そして今日、「真ん中の畑」へ行ってみるとやはり咲いていた。見事にまあ、ぱっかーん、と咲いたもんだ。あとは実を結んでくれることを祈るばかりですな(祈るほかにどうしていいかわからない)。

朝6時からもう蒸し暑いなかを、この日は小一時間ばかり電動草刈機で草刈り。汗がばしゃばしゃと体じゅうから噴出する。土の表面はものすごい雑草地獄である。ここの畑のなかでも特に泥のような粘土質の土質のエリアで、うまく切り拓けずにいるところに、さまざまな雑草がみっしりと生え揃っているのだ。それを丁寧にヴィ〜ンと草刈りしていく。たいして面白い作業ではないが、ダイエットだと思って楽しく畑仕事している。汗が滴るのも、痩せゆくプロセスと思えば心地いい。草刈りが終わるとすでに腕時計に付属している万歩計は10,000stepsをゆうに超えていた。いいものである。

ミニトマトの収穫もけっこうな数になってきた。収穫するたびに冷凍保存している。まもなく、それらは自家製トマトソースになる予定である。

bookmark_borderへちま、伸びる。

昨日は大雨が降った山形市内。異常な天気の続く2019年。東北はまだ梅雨明けせず。

今朝の空は雲はあるけれども晴れ間もすこし出ていました。早くも蒸し暑い朝6時頃、「真ん中の畑」と呼んでいる畑を少し見て回ってきました。

ようやく、ひと株だけ、2メートルほどの背丈まできました。この株、まだ花は咲いていないのです。これから花が咲いて、うまく受粉することができると、ようやく実をつけることになるのだろうと思います。大きなへちまが成るための道のりはまだ遠いのです。ここで生き残ったわずかな株たちの成長が、順調であることを願うばかりです。

伸びたツルの先にトンボが停まっておりました。見渡せばいつのまにかたくさん飛んでるのです。昨日までは全然気づかなかったし、雨ばかり続いてますが、それでも夏はちゃんと夏らしくなろうとしています。

先日ネットで購入した沖縄産へちま(食用)のネットショップに「たわし用の成熟したへちまを購入させてもらえないだろうか」という相談のメールをお送りしたところ、「残念ながら成熟する前に全て収穫してしまうので」というお返事をいただきました。なるほど、やっぱり全て食用なんですね。丁寧に対応していただいて嬉しかったのですが、入手できずに残念でした。

今年は、私の畑でどれだけの実を成らすことができるのか、まるで想像がつきません。ゼロの可能性もあります。でも、もしかしたら50本くらい成るという可能性だってあると思います。どうなることかわかりません。予想がつきません。だからこそ、買えるものなら買っておきたいとも思うのです。

周りでへちまを作っている人はないか、売っているところはないか、もう少し探してみるつもりです。こんな予定じゃなかったけど、今年は畑の準備も、タネからの芽出しも、いろいろと準備不足だったことに起因していると思います。「段取り八分」といつも語る北村くらた農園の北村くんの言葉が思い出されます。

bookmark_border畑の多様性と、隣との関係性。

山形市内のとある果樹農家さんを訪ねた。シャインマイスカットを育てていた。地上2メール弱の高さに広がる棚から、どわーっと美しく、明るい緑色したぶどうが垂れ下がっているのは圧巻の光景だった。もうずいぶんそれらしい外見をしているのに、収穫まではまだ2ヶ月もあるという。最終的には、一粒ひとつぶが15g以上にまで大きくなり、房としての形が美しい紡錘形を描くと、ようやく良いお値段がつくのだという。そこに至るまでの、ひと房から一粒のぶどうを摘果する作業などを拝見し、ぶどう農家さんの仕事が大変なものであることを、ほんのわずかの時間ではあるが教えていただいた。すごいものである。

その農家さんとのおしゃべりのなかに、「ずいぶん昔に有機農業をめざしていた」という話があった。農薬を使わず、雑草も取らず、畑をできるかぎり自然にまかせるような環境にしてみたのだという。そしたら、隣近所の農家から文句を言われるようになった。周りの農家さんたちは当たり前のように除草剤を使ったり、無駄な雑草を生やさないように生やさないようにしているから、「お前の畑から雑草の種が飛んでくるじゃないか、迷惑だからやめろ」と苦情が殺到したらしい。そうした批判が日に日に強くなり、根負けして、有機農業をめざすことを諦めたことがあったのだ、という話であった。

私も山形市内に2箇所ほど畑を借りているが、そのうちのひとつは、やはり隣の人が全く雑草を生やさない人で、いつも文句ありげな顔でこっちを見てくるからよくわかる。雑草が許せないし、隣から雑草の気配が漂うことが許せないのである。根本的に求めている世界が違うということは、やはり喧嘩の種になってしまうのである。

ちなみに私は雑草容認派である。除草剤や防虫剤の薬品も(今のところ)使わない。肥料は適当に使う。化成肥料を買うことも、市販の油かすを買ってくることもある。あとは、珈琲店をやっている友人の珈琲かすを畑に撒いている。あまり厳密であろうとする気はない。畑は世の中である。ほどよく自由で、多様な生き物が生きられる環境のほうが、なんとなくいい気がする。街と同じである。でも、それも、直感的なものに過ぎない。ただし、できるだけプラスチックを使用しない農業をしたい。それだけがかろうじてのポリシーだと思っている。

 

bookmark_border敵か味方か、ダンゴムシ。

ズボラな性格のせいもあって、畑には草がボーボーである。あまりに伸びすぎたら刈るが、基本的には雑草が生えているのは当たり前だと思っている。手入れの行き届いた誰かの畑は、こまめに雑草がかっちゃかれているのに対して、私の畑はいつも雑草だけはとても豊かなのである。よく言えば「多様性を大事にしたい」。

へちまの根元を見ると、ダンゴムシがうようようよとひしめいていた。こいつらは何をしているのだろうか? へちまの根元にいるのは、たまたまなのだろうか? 何日か前には、隣の株が枯れてしまっていたのだが、もしかするとこいつらの仕業なのだろうか? それとも、こいつらがここにいるのは偶然なのだろうか? あるいは、こいつらは何かを食べ、排泄をするのであろうから、それはへちまにとっていいことなのだろうか? こいつらに対する態度をどうしたらいいのか、まるでわからないでいる。